意思伝達装置のユーザーとして

鴨崎 有里

 平成20年11月、夫が脊索腫という脳腫瘍が原因で気管切開をしました。これは胃ろう増設当日、吐血し、呼吸状態が悪くなり緊急処置として受けましたが、元々腫瘍が原因による呼吸機能の低下も予測されていたので、いずれは必要となる覚悟はありましたが、早い時期での気管切開となりました。

 更に全身麻痺も進行しており、筆談も難しい状況でした。

 気管切開後、コミュニケーションの手段として、PTの先生が透明文字盤を勧めてくれましたが私はもちろんのこと病棟看護師達も、視線を合わせて言葉をつなげるということに慣れていないので、理解するのに時間がかかり、人手の少ない夜勤帯には夫の意思をくみ取る時間を割いてもらえず、1週間ほどで夫のストレスが大爆発しました。

 その時期残されていた運動機能は、右前腕と、ひとケタの握力でした。

 PTの先生が、その残存機能を生かしてコミュニケーションがとれるようにと、レッツチャットを紹介してくれました。

 そしてPTの先生を通して、札幌チャレンジドが機器を貸してくれました。

 器械関係の得意だった夫は、スペックスイッチを利用し、レッツチャットをすぐに使いこなして、コミュニケーションによるストレスから随分と解放されたと思います。

 レッツチャットの使いこなし方を見てPTの先生が今度は「伝の心」を紹介してくれました。

 仕事でもパソコンは使っていたので、伝の心の導入もスムーズに進みました。

 そして、上下肢1級・言語3級の障害認定を受け、入院中に申請をすることにしました。

 でも、そこで初めて壁にぶつかりました。

 理由は行政の担当者が制度を理解していなかったのです。

iCare11 私自身、制度の知識は全くなかったので、札幌チャレンジドの相談員であった佐藤美由紀さんにアドバイスを頂きながら、障害福祉課で申請の手続きをしようとしましたが、担当者が「制度が変わって現在は適応になりません」の一点張りで、3回、担当者に掛け合いましたが全く受け付けてくれませんでした。

 私では全く相手にされないという状況だったので、伝の心の購入先となる札幌チャレンジドの佐藤さんに直接、市の担当者と電話で話してもらい、制度についての説明をしてもらったとたん、「ごめんね~制度を利用できるわ」と電話が来ました。

 この時の市役所の担当者は障害福祉課でもベテランの年代で、半年間という短い時間で身体障害3級から1級へと変化した夫の申請状況をよく知っている職員でした。その担当者からは「大変だね~、俺ならぶん投げているわ!」とか、夫の意思伝達にはパソコンが必要だということが実感できていたので、制度を利用できなくてもパソコンは購入するつもりだという事を話すと、「お金持ちだね~」と心無い言葉を浴びせられていたので、当時の市長に直接その事を伝えました。

 そんな経過を辿りながらも、申請は順調に進み、病室で伝の心を使うことができるようになりました。

 札幌チャレンジドから借りていた伝の心に入っているデータを、自分の伝の心に移行する作業は札幌チャレンジドが病室内でバックアップしてくれたので、介護者である私は特に苦労はありませんでした。

 夫は伝の心を使うようになってから、日記を書いたり、ドクターに聞きたいことがあれば文章にしてプリントアウトして、ナースから渡してもらい、ドクターに話をしてもらったり、ナースへ、介護の仕方や自分の考えや希望なども、パソコンで表示してまとめてから、ナースコールを押して伝えていましたので、随分とコミュニケーションのストレスからは解放されたと思います。

 私が面会に行くと先ず、書き溜めていた物を読まされ、夫の意思はいろいろな方面に伝える事が出来ました。

 入院している患者には、たっぷり時間があるのです。じっくり自分の気持ちと向き合い、それを伝の心により文字にする事が出来るようになったのは、夫のQOLを高める事に繋がりました。

 一つだけ残念な事は、病室内でインターネットを使用することができなった事です。

 今やどんな病院でも、携帯電話を使用できるエリアが設置してあり、病室内でメールをやり取りしている事は周知の事実だと思います。

 しかし夫は、自分で歩いて移動する事ができず、介助されて車椅子に乗ったとしても、自分で電話をする事は出来ません。

 インターネットが使える環境であれば、自分でパソコンからメールをする事は出来たのです。

 私は恵庭から札幌の病院までほぼ毎日通っていましたが、子供が熱を出したり、自分の体調が悪い時などは、夫は私が病院に来るものだと思っていても連絡の取り様はありません。ただ一方的に病院に電話して伝言をお願いするしかなかったのです。

 後程改めてお話しさせて頂きますが、在宅介護中にレスパイト入院させてもらっていた病院では、パソコンの使用は許可され、人工呼吸器やモニターを使っている患者さんが居る重傷部屋において、ブログの開設などができました。

 そして私との連絡もメールによりいつでも繋がりが持てたという事で、夫もレスパイト入院を受け入れてくれたのだと思います。

iCare12 看護師として、一般外科病棟・脳外科病棟・手術室・健康診断施設・夜間診療所などの勤務を経験してきた私ですが、まさか夫の専属ナースとして在宅介護を始める事になるとは思ってもいませんでした。

 そして、在宅介護を取り巻く環境が、整っている福祉サービスではない事を実感しました。

 

 夫が治療・入院していたのは札幌の大学病院でした。平成14年に脊索種が発見され、5回の手術と陽子線治療を経て、一度は自衛官として職場復帰もしましたが、平成18年頃から予測されていた陽子線による晩期障害が出始め、平成19年12月に6回目の手術を受け、8か月に及ぶ入院生活から在宅生活へと帰ってきました。

 もちろん大学病院では障害の固定が認定されると転院の話をされましたが、特殊な脳腫瘍でしたので、できる限りの手続きを終わらせてから転院したいという意向を伝えると、入院の延長はさせてくれました。

 その間に、気管切開部の形成手術を受けると、サクションも一日の回数としては当初より激減したので、全身麻痺で動けないけど、自動体交のベッドもあるし、在宅介護でやっていけるのではないかと思えるようになりました。

 最初にその気持ちを伝えたのは夫のPTの先生でした。PTの先生は夫とのコミュニケーションから在宅生活をする気持ちがある事を察し、私に「どれだけリアルに在宅介護を考えていますか?」と聞いてきました。

 いろいろな要素の解消方法なども含め、「とりあえず私が一人で車椅子にトランスする事が出来ればいいな」と伝えると、右足のケイセイ反射を利用してトランス出来るようにリハビリを進めてくれました。

 OTの先生は環境を整える事で少し動く右手で文字を書くリハビリをしてくれました。

 私からの要望で、気管切開のカニューレはスピーチカニューレにしてもらい、発声もあきらめてはいませんでしたが、当時はSTのリハビリは受けられませんでした。

 そんな後押しもあり、主治医には転院ではなく、在宅介護の意思を伝え、環境を整えてからの退院となりました。

 夫のリハビリを担当して下さったPTの先生から「在宅介護は介護者である奥さんが、楽をする方法を見つけないと長続きしませんよ」という言葉を頂き、ケアプランは殆ど私が考え、微調整をケアマネージャーに託しました。

 

 在宅生活を初めて直ぐに、インターネットの開設を札幌チャレンジドに依頼しました。

 インターネットが出来るようになってからの夫は、友人達とメールのやり取りをしたり、ネットショッピングをしたり、私の知らないところで、夫の世界が出来たのです。

 生活の殆どを、他者に依存しなければならない身体状況で、自分の世界を持つという事はとても意味のある事だと思います。

 又、夫が自分でメールをする事で、私は1~2時間の外出も可能となりました。

 外出中は、安全確認として、30分毎にメールをもらう様にして、サクションも、夫は苦しくなって来る自覚があるので、外出前に必ずサクションをしておき、それでも必要になったら、我慢できる時期に早めにメールをもらい、最長でも15分で帰宅するという方法をとることが出来ました。

 排尿も同じように、近所の友人宅でバーベキューをご馳走になっている時に「そろそろおしっこがしたくなってきたよ」とメールをもらい、5分で私が帰宅するという具合です。

 

 しかし、夫の病状は進行が進み、在宅生活を始めてから4か月程で、人工呼吸器が必要となり、腫瘍の再発もあり7回目の手術をする事を選択しました。その手術のためにレスパイトで入院していた病院で待機している時に、以前から札幌チャレンジドより話が出ていた、学生ボランティアを受け入れることになったのです。

 自宅のある恵庭市内には、リハビリの専門学校があり、札幌チャレンジドがST学科の授業の一部を担い、パソコン操作の得意な学生が、伝の心のサポートをしてくれるという事でした。

 夫もブログを始めたいという希望があったので、学校から徒歩圏内にある我が家にサポートに来てもらうという事は、札幌チャレンジドからサポートに来てもらうよりも、必要時すぐに来てもらいやすいと心強くも感じていました。

 その時期が、手術前の待機入院先となりましたが、夫の生きる為のモチベーションを上げるには、新しい事を始める必要があったのです。

 ボランティアとして来てくれた男子学生と顔を合わせたのは、病院のロビーでした。

 今ここに居る佐藤さんの指導の下、学生ボランティアのサポートによって、病室でブログの開設をする事が出来ました。

 手術のための大学病院に入院中は、意思伝達装置としてパソコンは使えましたが、インターネットが使えないため、夫の世界は狭いものへと戻ってしまったのです。

 手術後の状況はシビアなものになってしまったので、夫の精神状態も決して良くはありませんでした。

 そのため、夫の利用していた訪問看護ステーションの別な地域の所長でもあった私の恩師からの助言も受け入れず、2か月で大学病院を退院し、人工呼吸器を持って在宅生活に戻りました。

 家に帰って来ると、夫の精神状態も落ち着き、子供達の運動会を見に行ったり、参観日に出席したり、果てには、あの新型インフルエンザの流行真っ只中に、小学校の学芸会にも出席しました。

 その間に、パソコンの操作能力はどんどん落ちて行き、札幌チャレンジドでスイッチの変更の申請をしてもらったり、直接ボランティアの学生と連絡を取り、サポートを何度かお願いしていました。

 

 平成21年の秋には、パソコンは殆ど使えなくなり、コミュニケーションは短い単語を口の動きで読み取る事と、問いかけに対して、イエスとノーで答えてもらう事ぐらいしか出来ていませんでした。

 一日の殆どは、好きな釣りのテレビ番組を見る事となってしまい、同じような番組を見せられる私のほうが参っていました。

 年を越して冬には、褥瘡が悪化して、車椅子へ乗車する事も出来なくなり、ベットアップもなるべくしない様にとDrから指示をされ、テレビも見られない状況になりました。

 ベッドに寝たきりの状態になってしまったので、再びパソコンを使って何か出来ないかと思い、スタンドがあったので、寝ている姿勢でも画面を目の前にセッティングする事で、ユーチューブの導入を考えました。

 そこで、私が簡単にユーチューブを使えるように設定してもらうために、ボランティアの学生にお願いしようとしたところ、ボランティアを希望してくれる学生が4人に増えていました。

 設定はもちろん学生ボランティがしてくれて、夫は好きな渓流釣りの動画を見る事ができてとても喜んでいました。

 しかし、スイッチの使用が出来なくなっていた夫には、短い動画の再生の為の介助が必要でした。

 又、視線や脳波によるスイッチの導入も考え、スイッチを使うための訓練や、介助者として、夫により添い動画再生の補助をしてもらいたいという希望を伝えると、快く引き受けてくれたので、夫は又、新しい事にチャレンジするという希望を持つ事が出来ました。

 ボランティの学生さんには、春休みが終わってから4人でローテーションを組んでもらい、週に1~2回、新しいスイッチを使うための練習をしてもらう予定になりました。

 春休み中には、娘に夫の枕元に付き添ってもらい、動画を更新する操作をしてもらいました。

 その頃、殆ど傾眠がちになっていた夫は、娘と息子の始業式の朝には、しっかりと目覚めていて、進級する子供達を送り出しました。

 そして、大好きな開高健のイトウ釣りの動画を見ながら、眠りにつき、3日後に亡くなりました。

 腫瘍が発見された時、平均余命6~7年と宣告され、私から夫に告知をしていました。

 在宅生活の支援は、医療関係者だけではなく、ボランティアの学生達にまで繋がり、最後の日が来るまで、希望を失わず過ごすことが出来ました。

 この学生達のボランティアは、現在恵庭で繋がっています。